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一般に、「救われる必要性」を感じるのはどんな時か。 心痛、苦痛、悩みなど、何らかの困難を覚えている時。 例えば、災害、災難に見舞われた時、遭難した時、大病ににかかっていることが朗らかに成った時、など。

そうではない、ごく普通の生活を送っている時に「救い」は無用だ。 「救い」は無用であるということは、すなわち、「宗教」は無用でである。というのが大方の日本人の感覚なのだろう。

そうした場合、いわゆる「宗教の勧誘」と思しき人が来訪するとか、知人から話を聞かされる時の決まり文句は、一般的なセールスを断るときと同じ、「間に合っています」というフレーズか聞かれる。

間に合っている、とは、足りているとういことであるが、ほとんどが、何ならの宗教にも属さない、特定の信仰も持たない、日本人に「間に合っている。足りている」と言わせる感覚は、欧米人には理解できないかも知れないが、現に、宗教などなくても不自由しない。それなりに自適にやって行けると思うからだろう。

「宗教の勧誘」とは詰るところ「救いの提供」ということだろうから、その手口は、とりも直さず、「救われる必要性」に気づかせる。あるいは思い出させる。以外にはないのかも知れない。 すべての「宗教」には共通したセオリーがある。 それは「現在、現状」から別の所にフォーカスを移すことである。 「肉体」を忌み嫌い、蔑み、否定し、棄て去るべきものという認識。 特に「仏教」にはその傾向が強いが、決してそれだけではなく、他の宗教も同様である。 そして、究極的に焦点を「死後」に向けさせる。

「宗教」を完全に別にした、「信仰」の必要性や、前代未聞の「希望を持つことの必要性」など、まず聞くことはない。

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