公開済キリスト教世界 ストイケイア7新約聖書は「宗教」に反対している

新約の文脈では、イエスや使徒たちは形式的な「宗教」(儀礼中心のもの)を批判し、心の信仰・関係性・愛・聖霊による変革を重視します という表現がAIの解答の中にあった。

コロサイ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 コロサイ 2:17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。 コロサイ 2:18 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、

コロサイ 2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、 コロサイ 2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 コロサイ 2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。 コロサイ 2:23 これらは、【独り善がりの礼拝】(ギ語:エスレスケイア;self-made religion 自作自演崇拝方式)、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

自ら強制された礼拝  self-made religion

ヤコブ 1:26 自分は【信心深い者】(ギ語:スレスコス:religious 宗教的)だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の【信心】(ギ語:スレスケイア)は無意味です。 ヤコブ 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない【信心】(ギ語:スレスケイア)です。

本来あるべき、包括的な宗教という概念を表す語が存在しないために、ヤコブはここで、一般的な崇拝的な意味の語(スレスコス、スレスケイア)を借用して、清く汚れのないという語を付した上でこの【信心】という語を使用している。

コロサイ 2:16 《 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。》 コロサイ 2:17 《これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

二千年近く前にすでに、明確に示されているにも関わらず、 宗教的に、特定の飲食物を禁じること、(肉、牛や豚、コーヒー、アルコール飲料など)、 「手をつけるな。味わうな。触れるな」とか 特定の祝祭日を守ること、とりわけ安息日を、守るべきとか、土曜だ日曜だ、などの論争が未だに絶えない。

関連する重要な御言葉

- ヘブル 8:5 「彼らは、天にあるもののひな型と影とに仕えている」 - ヘブル 10:1 「律法は、来るべき良いことの影であって、そのものの本体の姿を持っていない」 - ヨハネ 1:17 「律法はモーセによって与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストによってもたらされた」 - - 「何もそれ自体が汚れたものはない」(ローマ14:14) - 「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受け取るなら、何一つ捨てるべきものはありません」(1テモテ4:4-5)

コロサイ 2:18 《偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、

コロサイ 2:20 《あなたがたは、キリストと共に死んで、【世を支配する諸霊】(ギ語:ストイケイア)とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、》

クリスチャンは「ストイケイア」とは何の関係もない。 ここでの「ストイケイア」の具体例が「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律、人の規則や教えであり、その「ストイケイア」には自作自演の宗教、偽りの謙遜、体の苦行を伴っている。 当に「宗教とは何か」を見事に描き出している。 そしてまた、その「ストイケイア」に縛られているそれこそが「世に属している」つまり、サタンの支配するこの悪魔的な世界にどっぷり浸っている状態にある。

コロサイ 2:21 《「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。》 コロサイ 2:22 《これらはみな、【使えば】(ギ語:アポクレーシス)【無くなってしまう】(ギ語:フォスラ)もの、人の規則や教えによるものです。》

さて22節の 人間の規則や教え(ストイケイア)を**「使えばなくなってしまう」**と表現している。 ギ語:アポクレーシス、アポ(since、まで)+クラオマイ(使用する)の合成語 使い切る、消費 ギ語:フォスラ、腐敗、破壊、劣化、破損、分解

ここでパウロは、とりわけ宗教的なストイケイアである「人の規則や教え」(端的に言えば「宗教の教理」を、消費期限の短いもので、たちまし劣化し滅びる定めにあるものとしている。

コロサイ 2:23 《これらは、【独り善がりの礼拝】(ギ語:エスレスケイア;self-made religion 自作自演崇拝方式)、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。》

なぜ、人の規則や教え」が取るに足りないものなのかの理由について、それは単に人間製であるだけでなく(人間が創り出したものがすべて100%無為なものというわけではない)、「神から求められている」と勝手に思い込んだ発想から生み出した、狭量で過酷な、修行的慣行に過ぎないからであると、と指摘されている。 一見理にかなっているかのように見えて、その実、即物的で刹那的な効果しかない。 マタイ7:21-23の例

パリサイ人の伝承と「宗教的ストイケイア」

バビロン捕囚からの帰還後、 律法を犯さないように、独自の細かい規則(伝承)を設けることで、律法そのものを保護しようとした。 例えば、 安息日規定の細分化: 何が「仕事」にあたるかを厳密に定義し、行動を制限した。 形式主義: 律法の精神よりも、外見的な形式や儀式(手洗い、断食、十分の一の献金など)の実行を最優先した。 罪の分離: 「分離する者」を意味する名の通り、罪にまみれた世俗から自分たちを分離し、聖なる存在であろうとした。 自己義認: 律法を守っている自分たちは神に受け入れられているという優越感を持ち、そうでない人々を軽蔑する傾向がある。 こうしてみると パリサイ人の伝承の特徴と、「キリスト教」という宗教の特徴は、見事なまでにそっくり踏襲され、同じパターンとなっている。

「宗教」はそもそも、人を縛り付けるもの

コロサイ 2:21 戒律に縛られている まさに、このひとを縛るものこそが「宗教」である。

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